LivedoorBlogのリンクを読んでいて、Eddieさんという方の記事(※ブログ閉鎖されました)を見つけました。記事の主題は「アルフレッド・コルトーの演奏の功罪」です。どうやらピアニストの方らしい。読んでみたら凄く良い内容だったので思わずコメントしてしまいました。今、かなり久しぶりですがコルトーのCDを聴いています。
私は聴くのも弾くのもショパンが一番好きなのですが、細部まで正確に弾けない&実は最初から譜面に正確に弾く気があんまり無いタイプの演奏者だったりします。私もEddieさんの言うところの歌系の弾き手になるのでしょうか、子供の頃から事ある毎に先生に、そんな弾き方をしたらハイドンが怒りますよ!ブラームスが怒りますよ!と、再三のように言われてきました。いや、怒ってるのは故人ではなく先生の方なのですが!
私はコルトーが正確さを軽視していたとは思いませんが、ある意味、私と同じ様な誤魔化し方をする(私がコルトーと同じレベルの弾き手という意味ではありません)ので、正確に弾けるだけの十分な技術を録音時に彼が持ち合わせていなかったのは確かだと思います。彼の手は弱く、形もピアノを弾くには向かない手だったそうですし、私自身も男性としてはありえないくらい手が小さいのがコンプレックスでした。
コルトーの功績、これがピアノで歌うこと、テンポ・ルバートを、録音が出来るようになった時代に何とか後世に残せた事だと私も思います。ただコルトーの罪が音楽を正確に伝えなかった事だとすると・・・これはどうでしょう?作曲者本人が正確な演奏を求めていたのでしたらその通りでしょうが、少なくともショパン自身は自分の曲を譜面に正確に演奏することを弟子に求めてはいませんでしたし、文献からも彼自身の演奏がテクニカルで正確なものとは程遠かったのではと推測されます。それこそ、コルトーもびっくりの即興的なテンポルバートとぺダリングだったのではと。これは、ショパンに限らずこの時代の多くの作曲家が実は演奏家としてそうだったのではと思うのですが、この様に作曲者自身がやってもいないし望みもしない正確な弾き方をするのが果たして正しいことなのか?
私は音楽に於いて伝えるべきは、その曲に込められた精神であり、心であり、魂であり、色彩であって、作曲者も弾き手がそれをそれぞれの形で音楽の生命と流れを汲み取ることを望んでいたと思っています。技術はあくまで表現を実現する為の手段であって、それ自体が目的となってはいけないと思いますし、少しばかり解釈に問題やミスタッチがあったところで、それが原因で音楽の精神的な本質が失われる訳ではありません。逆に、譜面を表面的なテクニカル解釈と技巧披露のオモチャにして、機械的にアクロバティックに内面を無視した弾き方に終始する事の方が、作曲家の真意を汲み取らず、作品を冒涜するの等しい罪な行為なのではないかと。
ただ、こんな事をネットの辺境で私如きが言ったところで、今の時代は技巧的で正確な演奏が第一に評価され持て囃される訳でして、現代の演奏家が当時のような自由な演奏をすることは許されないし、そんな事をしたらたちまち激しい非難の矛先を向けられる事になるでしょう。これについては、不幸なことに、大作曲家の演奏が録音という絶対的な記録として殆ど残っておらす、演奏された彼らの真意が封じられてしまっている点に問題の本質があるのではと思います。
でも、数年前にブラームス自身が演奏するハンガリー舞曲第1番のピアノロールから、レーザー読みとり?か何かでまともに聞き取れるように演奏部分を抽出したものをテレビニュースで聴いた時、思わず感動とうれしさの余りガッツポーズしましたよ♪ 作曲者自身がこんな自由なテンポで弾いているのだから、私の弾き方の何が悪い!って\(^o^;)/
元ネタはこれだと思うのですが、このmp3ではとてもまともに聞き取れません。。。(苦笑)
こちらは自動演奏ピアノで復元したもの。ある程度演奏の感じは判りますが、実演ではかなり極端っぽく聴こえる強弱が自動演奏では表現出来無いのと間延びして生気が抜けてしまいますね。
こんな私ですが、アルフレッド・コルトーの演奏に関しては個人的に嫌いでは無いですが、実はそこまで好きなわけでもありません。このテンポルバートや自由な解釈には共感を覚えますが、もっと根本的なところで、コルトーの演奏を暫く聴き続けていると、喉元が涼しくなる感覚といいますか、精気を吸い取られる気がするのです。これは私だけかも知れませんが・・・(謎)
■HMV&BOOKS online アルフレッド・コルトー

■TOWER RECORDS アルフレッド・コルトー
■TOWER RECORDS サンソン・フランソワ
■TOWER RECORDS ヴラディーミル・ド・パハマン
そんなこんなで、フランス人で譜面に杓子定規に囚われない自由な演奏でEMI繋がりでしたら、アルフレッド・コルトーより後世のサンソン・フランソワの方が個人的には好みです。ちなみに、もっと昔の自由な演奏といえば、あまり録音は多くありませんが、ヴラディーミル・ド・パハマンが好きだったりします。こちらは輪をかけて激しく自由な演奏です。この話をすると、気ち○いとか、オマエは音楽を何も解ってない等々と硬派な音楽通からは貶されそうですけれども、他人に認めて貰えなくても構いません、私が尊敬し目指す演奏は、ホントのところパハマンなのですからV(^_-)
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私はコルトーが正確さを軽視していたとは思いませんが、ある意味、私と同じ様な誤魔化し方をする(私がコルトーと同じレベルの弾き手という意味ではありません)ので、正確に弾けるだけの十分な技術を録音時に彼が持ち合わせていなかったのは確かだと思います。彼の手は弱く、形もピアノを弾くには向かない手だったそうですし、私自身も男性としてはありえないくらい手が小さいのがコンプレックスでした。
コルトーの功績、これがピアノで歌うこと、テンポ・ルバートを、録音が出来るようになった時代に何とか後世に残せた事だと私も思います。ただコルトーの罪が音楽を正確に伝えなかった事だとすると・・・これはどうでしょう?作曲者本人が正確な演奏を求めていたのでしたらその通りでしょうが、少なくともショパン自身は自分の曲を譜面に正確に演奏することを弟子に求めてはいませんでしたし、文献からも彼自身の演奏がテクニカルで正確なものとは程遠かったのではと推測されます。それこそ、コルトーもびっくりの即興的なテンポルバートとぺダリングだったのではと。これは、ショパンに限らずこの時代の多くの作曲家が実は演奏家としてそうだったのではと思うのですが、この様に作曲者自身がやってもいないし望みもしない正確な弾き方をするのが果たして正しいことなのか?
私は音楽に於いて伝えるべきは、その曲に込められた精神であり、心であり、魂であり、色彩であって、作曲者も弾き手がそれをそれぞれの形で音楽の生命と流れを汲み取ることを望んでいたと思っています。技術はあくまで表現を実現する為の手段であって、それ自体が目的となってはいけないと思いますし、少しばかり解釈に問題やミスタッチがあったところで、それが原因で音楽の精神的な本質が失われる訳ではありません。逆に、譜面を表面的なテクニカル解釈と技巧披露のオモチャにして、機械的にアクロバティックに内面を無視した弾き方に終始する事の方が、作曲家の真意を汲み取らず、作品を冒涜するの等しい罪な行為なのではないかと。
ただ、こんな事をネットの辺境で私如きが言ったところで、今の時代は技巧的で正確な演奏が第一に評価され持て囃される訳でして、現代の演奏家が当時のような自由な演奏をすることは許されないし、そんな事をしたらたちまち激しい非難の矛先を向けられる事になるでしょう。これについては、不幸なことに、大作曲家の演奏が録音という絶対的な記録として殆ど残っておらす、演奏された彼らの真意が封じられてしまっている点に問題の本質があるのではと思います。
でも、数年前にブラームス自身が演奏するハンガリー舞曲第1番のピアノロールから、レーザー読みとり?か何かでまともに聞き取れるように演奏部分を抽出したものをテレビニュースで聴いた時、思わず感動とうれしさの余りガッツポーズしましたよ♪ 作曲者自身がこんな自由なテンポで弾いているのだから、私の弾き方の何が悪い!って\(^o^;)/
元ネタはこれだと思うのですが、このmp3ではとてもまともに聞き取れません。。。(苦笑)
こちらは自動演奏ピアノで復元したもの。ある程度演奏の感じは判りますが、実演ではかなり極端っぽく聴こえる強弱が自動演奏では表現出来無いのと間延びして生気が抜けてしまいますね。
こんな私ですが、アルフレッド・コルトーの演奏に関しては個人的に嫌いでは無いですが、実はそこまで好きなわけでもありません。このテンポルバートや自由な解釈には共感を覚えますが、もっと根本的なところで、コルトーの演奏を暫く聴き続けていると、喉元が涼しくなる感覚といいますか、精気を吸い取られる気がするのです。これは私だけかも知れませんが・・・(謎)
■HMV&BOOKS online アルフレッド・コルトー
■TOWER RECORDS アルフレッド・コルトー
■TOWER RECORDS サンソン・フランソワ
■TOWER RECORDS ヴラディーミル・ド・パハマン
そんなこんなで、フランス人で譜面に杓子定規に囚われない自由な演奏でEMI繋がりでしたら、アルフレッド・コルトーより後世のサンソン・フランソワの方が個人的には好みです。ちなみに、もっと昔の自由な演奏といえば、あまり録音は多くありませんが、ヴラディーミル・ド・パハマンが好きだったりします。こちらは輪をかけて激しく自由な演奏です。この話をすると、気ち○いとか、オマエは音楽を何も解ってない等々と硬派な音楽通からは貶されそうですけれども、他人に認めて貰えなくても構いません、私が尊敬し目指す演奏は、ホントのところパハマンなのですからV(^_-)
《Last modified 2018/08/17》


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今日はたまたまEDDIEのサイトのリニュをやっていまして、ちょっとブログをチェックしたらPastelさんのトラバとコメントを頂いていましたので、大喜びでコメントしに来てしまいました。
Pastelさんのおっしゃる事には全面的に賛成できました。そして自分の知らなかった事が沢山あり、非常に嬉しかったです。19〜20世紀前半を跨ぐ世代のピアニスト達(つまり僕らが聴く事の出来る一番古い辺りですが)の演奏が何故ああいった形なのか、凄くわかった気がしました。そうするとコルトーは、もしかしたら「ピアニストたる者のあるべき姿」を正確後世に遺していたのかもしれないですね。そうだとしたら、彼に功はあっても罪はないのかなぁとも思いました。
僕が言っていた「正確さ」の事ですが、自分が演奏者として人前で弾いた時に、その人達がその曲を知らなかった場合、後になってCDなど聴いて、「え、こんな曲だったの??」と思わせてしまうのはどうかと思ってたんですね。それで、CDなどの媒体に関しても、世の中に自分のCDしかなかったら・・・という認識を持って作るべきではないかと思っていたのですが、Pastelさんのブログを読ませて頂いたり、リンクからブラームスの音を聴いたりしてみて、それも、余計な心配だったのかなぁとも、少し思いました。
今日はとても有意義な時間を頂けて感動しました。良い意味で衝撃を受けましたし考え方も少し変わりました。これからもっと楽な気持ちでピアノの前に座れそうです。ありがとうございました。
パハマンですが、聴いた事がないですし僕の地方には売っていなさそうですので、記憶に留めておいていつか出会う機会があったら聴いてみたいと思います。
それから最後になりますが、是非PastelさんのブログをHPとブログのリンクに入れさせてください。きっとお返事頂く前に作業してしまうと思いますが、まずかったらおっしゃってください。